
こんにちは、れいかです。
先日、興味深いツイートを見つけました。
鬼滅の刃遊郭編のちょったしたシーンです。遊郭である事がわかるのですが、実はこの背景画には貴重な情報が詰まっているのです。
そのツイートがこちら。
『鬼滅の刃 遊郭篇』第2話で炭治郎たちが宇髄天元に遊郭に連れて来られるシーンで、明治末期の写真や絵葉書に見られる吉原大門が描かれていました。
この門は大正12年の大震災で失われ、現在では「よし原大門」と記された街灯が道の両側に立っているだけで何も残っていません。 pic.twitter.com/Tl3hoaWpxp— アニメ聖地巡礼・舞台探訪 (@animeseichi) December 13, 2021
今回は
「なぜわかる?鬼滅の刃遊郭編は
大正3年3月〜12年の吉原」
という話です。
この記事の内容
この記事を書いている私は・・
なぜわかる?鬼滅の刃遊郭編は大正3年3月〜12年8月の吉原
鬼滅の刃遊郭編のモデルは大正時代の吉原。
ファンならきっと知っている事でしょう。
でも大正3年3月〜12年8月という細かい所までは知らない人も多いでしょう。
カギを握るのは・・
- ①物語の背景画に隠されている。
- ②大正の初期まで花魁道中を行なっていない時期があった。
順に解説しますね。
①物語の背景画に隠されている。
冒頭のツイートですが
物語には吉原大門が描かれています。
つまり・・
関東大震災より前。
目の肥えた読み手や視聴者にも
納得の行く背景が描かれていて感心しますね。
しかしなぜ?
大正12年9月1日の震災前
だという事がわかったとしても
大正3年3月以降だという事までわかるのでしょうか。
次で解説しますね。
②大正の初期まで花魁道中を行なっていない時期があった。
実は、明治の終わり「吉原大火」で吉原は消失しています。
程なくして色街は復活しますが
花魁道中が復活したのが大正3年3月。
ということは
道中が復活した”大正3年3月よりも後”。
情報をまとめます。
【大正3年3月〜12年8月】
ということがわかりました。
【補足】大正の花魁道中はこうだった。
補足になりますが
大正3年3月、道中復活の貴重な写真。
(新吉原) 花魁道中 稲本楼 若砂
と書かれています。
・・・・・・・・・・・・・・・
当時の吉原三大妓楼のひとつ
「稲本楼」の若砂花魁
加藤写真館製(禁複製)と書かれています。
この貴重な写真については・・
【写真出典】大正3年(1914)新吉原遊廓「花魁道中」絵葉書
映画にもなった「さくらん」が江戸初期〜中期だとわかるワード
今は鬼滅の刃遊郭編で、花魁や遊郭が気になっている人が多いものです。
しかし、このブームは過去にもありました。
人気コミックスの「さくらん」
これが映画化された時代です。2007年上映なので一昔前ですね。
吉原の太夫は江戸時代後期に消滅して
幕末頃には花魁が最上級という位置付けになっています。
「さくらん」はザックリ遊郭や花魁の事が分かる。
そう、ザックリなので
予備知識がないと分かりにくい部分もあるかもです。
こちらの記事では、遊郭や遊女についての予備知識を分かりやすく盛り込んであります。

花魁に憧れる勘違い女子が急増していた
映画「さくらん」が流行っていた頃
この映画の影響で、花魁に興味を持った女性が多く出現しました。
見た目の華やかさに憧れるのは分かります。
でも遊女の壮絶な人生を知ったら・・
・・・・
そういえば、ついでに・・
「鬼滅の刃」や「さくらん」
を見逃しているなら
配信サイトをおすすめします。
U-NEXTはコミックスも映画もアニメも1ヶ月無料で見放題です。
無料期間中に、見たいものだけしっかり見て
さっさと解約してOK(笑)
【まとめ】その花魁はいつの時代の話?
「鬼滅の刃遊郭編」は
大正時3年3月〜12年8月の吉原。
「さくらん」の様に
太夫と花魁が共存している話は
江戸後初期〜中期である。
吉原の太夫は消滅して、幕末には花魁が最上級という位置付けになった。
その話は「どの時代の?どの地域なのか?」をチェックして観れば理解が深まりますね。
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最後まで読んでくれてありがとうございます。
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(´∀`*) 篝れいか